熱帯夜

女として女に愛され愛したい

【映画感想】『82年生まれ、キム・ジヨン』

お久しぶりです。mira(@mirara_l)です。みなさま、お元気ですか。

繁忙期はまだまだ続きますが、カレンダー通りのゴールデンウィークに少しリフレッシュできたので、やっと筆を取る?キーボードをタイピングする?気力が沸きました。(勉強を自分なりに進められているという成果が大きいかも……)

さて、最近の近況ですが、ワクチン接種の3回目をパートナーと済ませてきました。1・2回目はファイザー製のもので、幸いなことに私は腕が痛くなるぐらいでしたが(パートナーはしっかり発熱してたけど)、今回は交差接種ということで、モデルナ製を。ばちこり副反応が出ました。38℃を超える熱。仕事柄、子どもの看病することはあっても、社会人になってからは自分ではあまり経験したことがなく、あまりのしんどさに泣きました。

寝れないんですね、高熱が出ると。体温調節もうまくできなくなる。普段は「健康だから」暑過ぎたり寒過ぎたりすることがないんだぁ、と頭では冷静に考えるも、呼吸が上手くできなくて、寝返りをうつのもしんどくて、うんうんと過剰なまでに唸りながら熱が下がって寝ているパートナーを起こして、ロキソニンをとりにいってもらいました……。ごめんね、ありがとう……。

実はパートナーの方が先に発熱して、私はピンピンしていたので、介抱しがてら彼女の枕元で「miraも副反応欲しい!!ちょうだいちょうだいちょうだい!!」と舐め腐った駄々を捏ねていました。その後しっかりと副反応が出たので、さすがにあの夜は、自分をひっぱたいてやりたかったです。ちなみにパートナーは「熱が出たときのmiraの唸り声がうるさすぎて、さすがに黙れと思った」と言っていました。副反応で苦しんでいる人の隣で副反応くれと言っていた罰ですね。

あと、高熱が出ると体に力が入らなくなるのは盲点でした……!せっかく飲み物を入れたステンレスボトルをベッドサイドに用意したのに、飲むときにするりと手からこぼれ落ちていってしまいそうになるの!いや〜、今度からお熱がある子のこと、今までより、もうちょっとだけ甘やかしてあげよう。。。辛いね、よく分かったよ。。。

高熱になって体が暑くて堪らず、沸騰した頭の中には平沢進師匠の『パレード』が流れ始めて、もうハイになった頭では簡単に眠ることができず……久しぶりにカーテンから入ってくる明け方の光に怯えながら何度も何度も鬼リピートしました。もう、パプリカの世界に行ってしまいたい……という現実逃避。

さて、ようやく本題に入りますが、一旦お熱が下がってきたので、なんとか食事をとれるぐらいになり、一緒に映画を見ようと選んだのが『82年生まれ、キム・ジヨン』。先日、急にドラマ『ナオミ』が観たくなってFODに加入したんですよ。そうしたら偶然パートナーが見つけてくれて。この記事を書いたときに、映画化していることは知っていたのですが、まさかこんな風に簡単にお家で観られる状態になっているとは!

感想は鮮度があるうちに、と思って久しぶりにブログを書くことにしました。
ネタバレあります!注意!

 

 

 

原作に比べると、映画寄りに色々と編集されていて、観終わったときの感覚は前向きでスッキリしています。観ていてやっぱり苦しいんだけれど、なんか韓国がうらやましすぎて。男性も一緒に真正面から女性の生きづらさに焦点を当てた作品を作り上げようとしてくれている姿勢が感じ取れるので……。そういうものから目を逸らそうとする男性が多いように感じる日本とは大違い。日本、いつになったらそこまでいける?……きっと無理だ、という諦めの気持ちを抑えることが精一杯でした。

原作の本の方は、どちらかというとジヨンの回想の方が多くて、どこを切り取っても「私の物語」だと思ったのだけれど、映画になった今回は、子育てとか義理の母親や、捨てざるを得なかったキャリア、などの描写が多いような気がして、私自身に当てはめるというよりも、いま絶賛子育て中の妹や、自分の母親に、この登場人物の女性たちを当てはめて観てしまって、何度も涙してしまいました。

レズビアンで結婚の選択肢が「なぜか」無く、子育てをする環境や機会も「なぜか」無く、だから選んだわけでもないのに、安定の道で働く選択肢しかない私のことは、ジヨンや実の妹からしたら、もしかしたら切なくなる対象なのかもしれないな。……なんて。

活字ではなくて映像になると、私にはジヨンを取り巻く、働く女性たちの目の方が、はるかに印象的でした。これはいま現在の立場の問題かもしれないな。パートナーも言っていたけれど働いていた頃のジヨンと、主婦の今のジヨンの対比の描写が細かいんだけれどすごく鮮明に描かれていて。それぞれの役者さんの演技の上手さも相まって、本当に色々な場面での女性として生きていく苦悩や、多すぎて言葉にするのも大変な日常のモヤモヤを丁寧に丁寧に描いてくれていた。

ここから先は、私の個人的な感想というか考察なのだけれど、ジヨンのあの不意に出てきてしまう人格、あれってジヨンが実際に伝えたかったことなのではないか……と思うんですよね。だから、旦那に真実を告げられたときに驚きはしたものの、それほど取り乱さなかったのでは?と思うのです。そのときの自分のことをはっきりとは覚えているわけではないから確かに怖くはあるけれど、「それ(憑依したときに自分が誰かになって口にしている、女性の生きづらさのようなもの)が自分の中で引っかかっていたことなのか」と腑に落ちて、不調の原因を突き止められたと悟ったかのような。そんな雰囲気を私は感じました。

幼い頃から現在に至るまで、男性優位の社会で「女性」として生きてきた身近な人物を、きっと「何かおかしい」と思いながら見てきたジヨン。でも大人になり、気付いたらいつの間にかその渦中にいたことで、上手に声を上げられなくなってしまった。

私たちもそうだけれど、幼い頃から今まで常に記号のように「女」として扱われるときの、何とも言えない負の感情や呪いのようなものってすごく身近で、それって数えきれないほど、本当にたくさんありますよね。それをジヨンは、ああやって誰かになりきることで、はっきりと伝えられるようになったのでは?と思うのです。

原作と映画で明らかに違ったのは物語の終わり方と、ジヨンの周りの男性たちの変化についての描写でした。特にジヨンの弟に名前がついていたのにはびっくりした。でも終盤の彼の行動によって、なぜ名前をあえて出したのかが何となく理解できたような気がします。

身近な男性、あとは父。「被害に遭う方に問題がある」と言った父。「就職なんかしないで結婚しろ」と言った父。息子には精力剤を買ってくるのに、心が不調の娘には何も買ってこない父。その父が女性である娘たちを、男性として差別してしまっていた内省を感じるあの背中。あれは、同性としてやりたいことができない苦しみが分かる、母のやるせなさと、ジヨンへの共感に愛情によって生み出されたんですね。少しずつ、ジヨンから変化を生み出したのかなと思います。

どれだけ「あの頃はよかった」時代を生きてきた人でも、一緒にこれからの時代を生きなければならない。社会に変化をもたらすとすれば、過去の時代に「気持ちよく生きてきた人」が、いかにそれに気づくことができるかなんですよね。

普段は日本に絶望して諦めがちだけれど、私は映画のジヨンからも、確かに勇気をもらいました。フェミニズムとか、男性至上主義とか、家長父制度とか、普段は、そうやって呼ばれている何かに対して、なんとか上手く言及しようとするんだけれど、やっぱり私は自分の言葉でしか感情を言い表せなくて。でも、それでもいいと思いました。

 

klockworx-asia.com

 

この公式サイトのリンクに飛ぶと、読み込みの数秒の間だけ出てくる「〇〇〇、〇〇〇〇〇」という言葉と、トップページの一番下にある、とある文房具を見ると、まだ傷つくことに慣れ過ぎている日本に住む女の私の胸が、キリリと痛みます。

女性は、もっと生きやすくなっていい。もっと主張していい。もっとわがままも文句も言っていい。もっと議論してもいいし、もっと泣いてもいい。もっと幸せになってもいい。