熱帯夜

女として女に愛され愛したい

だれかのせい、なにかのせいにしたっていいでしょうが

働き始めてから数十年、ずっと思い込んでいたことがある。

 

  • 組織で働くことに向いていない
  • 人と会うことが苦手

 

この2つのことは全て自分の性格によるものだと、そう思ってきたのに、この間モーニングページを読み返していたときに、自分が書いたとある文章が目に飛び込んできた。

“働くことが辛いのも、人とできるだけ会いたくないのも、私自身の問題なのではない。自分のセクシャリティを隠していなければ傷つきが深くなる社会のせいだ”

ほんとね。って思った。ほんとね。

この社会では「何事も人のせい、何かのせいにしてはいけない」と教育される。それがデフォルト。痛いことをされたから「とにかく痛いんだ! やめてくれ!」と声をあげようとしても、周りの痛くない人から「考え方次第だ」「受け止め方に問題がある」とか言われる。

「他人は変えられないけれど、自分は変えられる」とか「置かれた場所で咲きなさい」という言葉。意味は分かるけれど、それらを聞くといつもモヤモヤした。こういう日本的な美学が良しとされる社会で生きているのがつらい。だってこれを性的マイノリティに対して投げられる言葉に変えると、こうじゃない?

 

「こんな世の中なんだから仕方がないじゃん」

「結婚できないのが嫌なら外国に行けば?」

「自分中心に考えるな」

「権利ばっかり叫ぶな」

 

これ本当に、私たちの気持ちや捉え方で何とかできるものなの? 黙っていたら、排除の声に加担してしまうことになるんだよ。

私が組織で働きたくないのも、人と会いたくないのも、パートナーと子育てができないことも、私の問題ではなく、社会からの支えがないからでしょ。それでも何とか生きるために、適応するために、自分を変えることも置かれた場所でがんばることも、なんとかやってきた。これ以上、自分のせいにはできないよ。適応できないのは私のせいじゃない。だって平等に扱われていない。

新しい環境にいくことが、とてもこわい。飛び込む勇気がない。それでも誰かに異性愛者の仮面をかぶらされて勝手に後ろから押される。

その仮面はつけているととても重くて、息苦しくて、動くだけでもめちゃくちゃしんどい。でもそれがあることで、この社会でなんとか生きていくことができるお守りみたいな存在(逆を言ったら、この仮面がないとこの社会で無事ではいられない、と思うほど強い仮面)。

お守りなんてなくても、私は私なのに。これは誰にかぶらされた仮面なの? ていうかそもそもお守りだなんて嘘に決まっているのに、誰にかぶることを強制されているの?

その人自身の希望でかぶってんだろ、と思いたい? 社会がそれを勝手にかぶらせてるんじゃないの? ってところから考えましょうよ。性的マイノリティの権利や安全を軽視する、一部の政治家の皆さん。ねえ。……ねえ!