熱帯夜

女として女に愛され愛したい

温かくて柔らかい私の娘

またひとつ、捨てることができた。思い出の断捨離。

自分が同性愛者だからか、人間関係においてあまり深入りせず、浅く狭く生きてきた。時に寂しくなることもあるけれど、この生き方が結構気に入っている。もしも私が異性愛者だったら、あの人とも、あの人とも、今でも濃い人間関係を続けていたのだろうか。例えばFacebookなんかでアカウントを作ったりして、家庭を築いたり、夢を追いかけたりする様子を、同じようにせっせと投稿していたのだろうか。

この生き方が気に入っているということはつまり、同性愛者故に苦労をしたり傷付くような社会に生きていても、それでも同性を好きになる自分のセクシャリティに全く迷いがないということで。それに気付かせてくれた今までの人や、モノに、多少は感謝している。

今日は、部屋の中に散乱するモノの断捨離ではなく、思い出の断捨離をした。10年以上も前に作成したYahoo!アカウントだ。毎日、数十件もの迷惑メールしか届かなくなったような、古ぼけた、用途の見出せない宙ぶらりんのアカウント。

自分が紛れもないレズビアンだと気付いてからの全盛期(?)頃に作ったアカウントだったらしく、二人目の元カノとの別れのやりとりや、出会ったばかりの頃のハンドルネーム時代のパートナーのフォルダもあった。懐かしすぎて、心がキュッとなった。

同時に、安心もした。異性愛者だと思い込んでいた自分のセクシャリティを模索しながら女の人と付き合いつつ、今のパートナーのことをハンドルネームで呼んでいた愛しい時間を経て、この人と生涯を共にしようと決意することになった“今”を感じたから。

大学生の頃の自分の写真がたくさんあった。今よりも痩せていて、カッコつけているのにどこか幼くて、まだこれから先の10年を知らない、清潔で若い私。世間の常識からすると過去があって現在の自分がいるとされるのだけれど、でも私にとって、写真の中にいる彼女は別人だと思う。

まるごと抱きしめてあげたいぐらいに愛しくて近い存在の、他の誰かのように感じる。よく頑張っていた。誰かを愛し、でも本当の愛に気付き、私の側(がわ)に早く来て、と願う。

私には、もうこのアカウントは不要だ。10年の思い出を、ものの10秒で消せてしまった。

過去の私を知っている人に、今の私を見せたくない。あなた達が知っている女とは、違う女だから。あの頃のように聞き分けは良くないし、知っていることも増えてしまったし、何より私よりも年上だった、あの頃のあなた達の年齢をとっくに超えてしまった。30代半ばになってしまったんだよ。

あなた達にとっては「なってしまった」かもしれないけれど、私にとっては「やっとなれた」んだよ。だからもう関わらないで、どうか私のことをこんな風に思い出さないで過ごしてくれているといいな。誰も知らない場所に行きたい。遠くの、知り合いがいない場所にずっと行きたいと思っている。

温かくて柔らかい私の娘は、今日もそんなことばかり考えている私に、そっと寄り添ってくれている。私が産んだのではない、私の娘。私より、早く死んでしまうことが決まっている娘。

私の本当の生活を、誰も知らないと嘆く割には、本当の生活を誰にも見せたくないと思う矛盾した気持ちも、結構気に入っているんだ。