熱帯夜

女として女に愛され愛したい

【映画感想】劇場版『きのう何食べた?』

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画像元:< TOHO THEATER LIST/劇場版「きのう何食べた?」シアターリスト >より

 

出会って14年になる私たちも、随分と歳を重ねた。今の年齢はそうだな……青年と中年の間ぐらい、と言ったところか。まだ20代の頃は、寝ても寝ても寝足りなくて、昼過ぎまでぐっすり熟睡していたから、よく母親に叩き起こされてたっけ。それがもう、どれだけ寝不足であっても午前中には自然と目が覚めてしまうようになった。

食の好みも14年も経てばそれなりに変わって、和食の繊細な味に舌鼓を打つことが増えた。相変わらず油ものや濃い味のものが大好きなんだけれど、食べ過ぎるとしっかりもたれてしまう、年相応の胃腸になった。髪の毛の量だって昔より減った気がして、最近はドライヤーを使う時に鏡に映る自分たちの頭皮を触りながら「ここ、おハゲさんになってる?」と見せ合って、笑い合う日々を過ごしている。そう、作中に出てくるケンジのように。

パートナーとは私が大学生の頃、ネットの海で趣味を通じて出会った。彼女は私の4つ年下なので、あの頃はまだ10代だったね。インターネットの先駆け時代だったから、パケット代を気にしながらメールを飛ばし合って、時間に関係なく文字で会話するのが、何よりの楽しみだった(ちなみにその趣味はゆっくりとだけれど、いまだに続いている。あの時きっと、私たちは出会うべくして出会ったのだな、と最近は思っている)。ネットでの出会いなんて、口外できる世の中ではなかったね。ネットでの出会い=出会い系=犯罪、みたいな時代だったもんね。

付き合うというか、こういう人生の伴侶のような関係になるまでには、そこからまたかなりの年月がかかるんだけれど。それでもこのブログを開設した頃には、まだ遠距離恋愛をしていたあなたと、今では同じ家から「行ってきます」と出て、同じ家に「ただいま」と帰ってこられるようになった。

結婚できていれば何の変哲もない、ふつうのふうふ。それが同性というだけでなんだか大層な『物語』になってしまう。いちレズビアンとして、忌憚のない感想を書こうと思う。

 

※がっつりネタバレがありますので、鑑賞後の方、ネタバレ気にしない方のみ、この先にお進みくださいませ。。。

 

 

 

この映画を観た最初の感想はこれだった。観ている間じゅう、ずっとぼろぼろ泣き合っていた。途中でパートナーが手を握ってくれて、上映中だから、もちろんまだ感想を言い合ってもいないのに、きっと私と同じ気持ちになっていることが、手のひらの湿った感じとか、指先の冷たさから伝わってくるようだった。

同じスクリーンで一緒に観ていたのは女の子が二人とおじいさんが一人、そしてお姉さんが一人。公開日から数日が経って、この映画を既に観た人、これから観る予定の人は、劇中、一体どんな気持ちでいて、観終わったときに、何と思うのだろう。

作品の中に政治的メッセージは一切ないし、同性婚が出来ないとか、同性カップルが子どもをもつ選択肢がどうのこうのとか、そういうことが真正面から描かれているわけではないけれど、“日本で同性と暮らしていく上で、いい歳になった大人としての苦しさ”みたいなものが、かなり丁寧に描かれていた。私はスクリーンの中のシロさんでもあったし、ケンジでもあった。

とても心に沁みる描き方だな、嬉しいな、と思うのと同時に、「ああ……私たちにとって普段から当たり前にある悩み(お正月のお互いの実家への帰省について、家族に全てを受け入れられているわけではないことや、カミングアウトをしていない職場での振る舞いや言動など、普段生きづらいと思っている全部のこと)って、まだこんな風に『物語』になってしまうんだ……」と思ったのも事実で。

異性のカップルと変わらず、ただ一緒に美味しいご飯を食べているだけなのに『物語』になってしまうのって、やっぱり私たちの周りに当たり前にある“生きづらさ”があってこそなんだよなぁと。普通に生活していく中で、同性カップルならではの苦労が苦悩が見え隠れするからこそ、シロさんの作るお料理と、それを食べる二人の些細な日常が、なんだか特別なもののようにキラキラと光って見えてしまう。

痛々しいほどの生きづらさの数々が、私たちの幸せな日常をより盛大に彩ってしまっているから、マジョリティ(※ここでは同性愛者より多くいるはずの異性愛者の意)が、「ゲイだったとしてもさ、こうして美味しいご飯を食べる関係なんだよね!私たちと何も変わらないよね!性別に関係なく、みんな普通に好きな人と生きてるんだよねっ!キラっ☆」なんていう感想をもったのだとしたら、なんだかそれは、とてもグロテスクで、皮肉なもんだな、など思ったりもした。こういう苦悩も含めてエンタメ化されてしまっているのかと思うと、私たちの味方って一体どこにいるんだろうね。

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ケンジを演じた内野さんが「”真夜中”にひっそりとやる話だった」と思っていたように、「(世間から見えないように隠れていなければならないはずの)同性カップルが”昼”に出てきたんだな〜」と、多くの人たちが思われなければ、この作品はここまでエンタメ化しなかったのかもしれない。内野さんの中にあるであろうホモフォビア(同性愛に対する偏見や差別の感情)は、ケンジを演じるにあたってしっかり出ていたように感じる。「ガールズトーク」「オトメ」などという(おそらく)台本上の台詞に合わせて、必要以上に体をくねくね動かす感じに、今まで”真夜中”でひっそりと言われてきたであろう、いわゆる「カマっぽさ」「オネエっぽさ」が、しっかりと体現されていた。

「オスにしかできない表現は一切必要ないです」と言われたからこそ、内野さん自身がああいう演技をしたのか、それともスタッフや監督からの「もっとメスっぽく!」「かわいく!」という演出上の指示だったのか。そこまでは私たちには分からない。ていうかそもそも、こんなブログを書いていながら、原作が家にあるのにまだ読んでいないのです。これから読む予定だから、ケンジというキャラクターがどんな性自認で、どんな環境で育って、どんな性表現をする男の人なのかが分からないの。今の私にとっては、「内野さんの演じるケンジ」が、私の中での『きのう何食べた?』の「ケンジ」というキャラクターのすべてなのです。(原作未読で映画を観にいく人がいても、いいよね……?)

ここでただひとつ言えるのは、内野さんが意識したらしい、オスを抜いてメスに寄せたケンジだったから、この『物語』は、こうして楽しい『エンタメ』になったのだろうな。観ている多くの人たちにとって、やっぱりゲイは作品の中だけの話、俗に言う、ボーイズラブ/BLのように(フィクション)になってしまった感は否めない。と思う。

「異性同士っぽさをまとった同性同士」じゃないと、世の中には出てきてはダメだよ、とでもいうような圧を感じて、オスっぽさなんてどちらも持ち合わせていない女女のカップルの片割れである私にとっては、とても苦しい空気感だった。メスっぽさをどちらも持っていないゲイカップルだって、きっとこの日本にはたくさんいる。ケンジとシロさん、ジルベールと小日向さんみたいなカップルだけが、ゲイカップルではないということも、これから先、社会全体で共有していかないといけないのではないだろうか。

それにしても内野さんの金髪&短髪、めちゃくちゃ渋くてかっこよかったな。例えば、オスっぽさ全開のおじさんと、優しくてダンディなおじさんのカップルがいてもいいし、きっと、いるだろう。ケンジとシロさんみたいなタイプのカップルも、もちろんいるだろう。映画の中には登場しなかったけれど、私たちみたいな女女のカップルだって、あんな風にお互いの人生のパートナーとして生活しているし、性愛関係じゃない形のパートナーと生きている人たちもいる。

「じゃあいいじゃん。ああいうオトメ的な感性を持ち合わせたカップルもいるんだから。これはそういう物語なんだよ」なんて、そう言われればそれまでなんだけど。でもやっぱり今回の映画の中で、「この世の中では、いつ相手を失ってもおかしくないんだ」という恐怖に、胸が張り裂けそうになった男同士のカップルを、あんなにも切なく、泣けるほどリアルに映すのなら。

そうやって生きづらい思いをして過ごしている同性カップルのために、テレビ局なり、出版社なり、俳優さんたちなり、スタッフさんなり、同性カップルを扱った作品に関わった全ての人たちにはぜひ、声をあげてほしいんだよ。この二人のように暮らす同性カップルが実際にいて、その人たちが結婚できないという世の中に、「おかしいよ!」と、一緒に声をあげてほしい。こんなにも素敵な作品を、単なる『ほっこりする同性カップルの日常物語』として消費しないでほしい。エンタメとして終わらせないでほしい。

私たちは、毎日この映画の二人のように食べる・寝る・働くをしながら生きている。シロさんとケンジと同じように、すれ違ったり、喧嘩したりしながらも、相手のことを大切で大切で堪らないと思いながら生きている。相手のことを自分より大事に思い、一生この人を守っていきたいと思いながら生きている。

――でも、二人を守ってくれる制度が使えないから。結婚するという選択肢が与えられていないから。『物語』になって『終わり』になってしまっている。



みなさんは、どんな思いでこの映画をご覧になりましたか?