熱帯夜

女として女に愛され愛したい

【読書感想】『娘について』キム・へジン 著/古川綾子 訳

やばい本を読んでしまったんだ。
どうしよう。

こうしてブログの記事にしているくせに、友達やフォロワーさんたち、そして読者の皆様には絶対に読ませたくない、やばい本だった。

私がまだ10代だった頃、あのときは自分が同性愛者だと気付いていなかったし、社会のことを、大人のことを、こんなにもよく知っていなかった。私はあまりにも素直で、快活で、世間知らずで、正しく子どもだった。真っ直ぐ友達と関わり、真っ直ぐ女性を好きなり、真っ直ぐ家族を愛していた。いつか社会に出たときの自分なんて想像できるはずもなくて、目の前のことに精一杯だった。

私がまだ20代だった頃、女性を好きになる自分を周りと比べ始めて、どこかおかしいと感じ始めた。でも、逃げようのない気持ちをきちんと受け入れて「私は同性愛者でレズビアンなんだ」と性的指向を認めた瞬間から、あまりにも生きやすくなって驚いた。その代わり、社会との隔たりを感じるようになった。家族とも壁ができた。

30代の今になって分かるのは、社会がそうさせていたということ。自分が人と違うから周りに壁を作っているような錯覚に陥って、苦しくなっていた過去。違うの。決してそうではなくて、この社会が、性的少数者や社会的弱者に対して、不寛容な人々を作り出しているのだ、と何十年経ってやっと知った。

私は生まれたときからレズビアンで、女性を好きになろうと自分で決めたり選んだりしたわけではなく、ごく自然に女性のパートナーに惹かれて人生を共に過ごしている。勤労し税金を納める大人になった。こんな社会でも、生きることを選んでいる。この本の中の言葉を借りるならば、”生の真ん中に立っている”から。だから私は「レズビアンの子どもをもつ母の独白のみ」で構成された苦しいこの本を、最後まで読めたのかもしれない。

えぐい内容なので、本当に読まないでください。私と感想を共有したいと思ってくださえる、私と一緒にこの時代を生きていく覚悟のある、大人だけ、お願いね。

 

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温かくて柔らかい私の娘

またひとつ、捨てることができた。思い出の断捨離。

自分が同性愛者だからか、人間関係においてあまり深入りせず、浅く狭く生きてきた。時に寂しくなることもあるけれど、この生き方が結構気に入っている。もしも私が異性愛者だったら、あの人とも、あの人とも、今でも濃い人間関係を続けていたのだろうか。例えばFacebookなんかでアカウントを作ったりして、家庭を築いたり、夢を追いかけたりする様子を、同じようにせっせと投稿していたのだろうか。

この生き方が気に入っているということはつまり、同性愛者故に苦労をしたり傷付くような社会に生きていても、それでも同性を好きになる自分のセクシャリティに全く迷いがないということで。それに気付かせてくれた今までの人や、モノに、多少は感謝している。

今日は、部屋の中に散乱するモノの断捨離ではなく、思い出の断捨離をした。10年以上も前に作成したYahoo!アカウントだ。毎日、数十件もの迷惑メールしか届かなくなったような、古ぼけた、用途の見出せない宙ぶらりんのアカウント。

自分が紛れもないレズビアンだと気付いてからの全盛期(?)頃に作ったアカウントだったらしく、二人目の元カノとの別れのやりとりや、出会ったばかりの頃のハンドルネーム時代のパートナーのフォルダもあった。懐かしすぎて、心がキュッとなった。

同時に、安心もした。異性愛者だと思い込んでいた自分のセクシャリティを模索しながら女の人と付き合いつつ、今のパートナーのことをハンドルネームで呼んでいた愛しい時間を経て、この人と生涯を共にしようと決意することになった“今”を感じたから。

大学生の頃の自分の写真がたくさんあった。今よりも痩せていて、カッコつけているのにどこか幼くて、まだこれから先の10年を知らない、清潔で若い私。世間の常識からすると過去があって現在の自分がいるとされるのだけれど、でも私にとって、写真の中にいる彼女は別人だと思う。

まるごと抱きしめてあげたいぐらいに愛しくて近い存在の、他の誰かのように感じる。よく頑張っていた。誰かを愛し、でも本当の愛に気付き、私の側(がわ)に早く来て、と願う。

私には、もうこのアカウントは不要だ。10年の思い出を、ものの10秒で消せてしまった。

過去の私を知っている人に、今の私を見せたくない。あなた達が知っている女とは、違う女だから。あの頃のように聞き分けは良くないし、知っていることも増えてしまったし、何より私よりも年上だった、あの頃のあなた達の年齢をとっくに超えてしまった。30代半ばになってしまったんだよ。

あなた達にとっては「なってしまった」かもしれないけれど、私にとっては「やっとなれた」んだよ。だからもう関わらないで、どうか私のことをこんな風に思い出さないで過ごしてくれているといいな。誰も知らない場所に行きたい。遠くの、知り合いがいない場所にずっと行きたいと思っている。

温かくて柔らかい私の娘は、今日もそんなことばかり考えている私に、そっと寄り添ってくれている。私が産んだのではない、私の娘。私より、早く死んでしまうことが決まっている娘。

私の本当の生活を、誰も知らないと嘆く割には、本当の生活を誰にも見せたくないと思う矛盾した気持ちも、結構気に入っているんだ。

出会って15年、一緒に暮らして4年になる、大切なパートナーの話

あまりに愛おしかったので、久しぶりに文章にしたためることにした。

夏になると、「これまでの繁忙期のことなどキレイさっぱり忘れろ」言わんとばかりに、比較的自由に有給が取れる期間がやってくる。現在の職に就いてからというもの、過言ではなくこの時期のために働いているのだと思っている。

自分のやりたいことや趣味を楽しむことを、一日の中で体力のあるうちにできるというのは、本当に幸せなこと。帰ってきてヘトヘトで、明日の早起きのことで余裕なく頭の中が焦りでいっぱいになって、それだけでさらに疲労が溜まり、気絶するように眠る毎日からの解放。

だからといって、逆にこれから繁忙期に突入するパートナーを車に乗せて、いろんな場所へ連れ回してしまうのは、私の悪い癖だ。それも夜中に。

遠距離恋愛を経て、4年前、関東から私の暮らす地方へ引っ越してきてくれた。私は女性で、彼女も女性で同性同士だけれど、この関係から文字に表すと、正真正銘「嫁いで」きてくれた。(ちなみに日本のいまの政治のせいで信じられないことに、いまだに私たちは「結婚」できていない)

私は未だかつて一人暮らしというものを経験したことがなく、彼女と暮らすまでは実家で暮らしていた。当時から、平日でも構わず一人でふらふらと夜中に出掛けることが大好きで、煌々と明るい本屋さんへ行ったり、ファミレスの角の席に座って文章を書いたり、お風呂に行ったり、目的なく車を走らせたりしていた。

そういうときは決まって彼女と電話を繋いでいて、「あなたが今、隣にいてくれればいいのに」が口癖だった。私にとって彼女と時間を共有することは、一人のときぐらい気楽で楽しいものだということを、既にその頃から知っていた。

電話越しに聞こえる、コロコロとした笑い声、と思えばびっくりするほど適当な相槌。時にむくれていたり、時に泣いていたり、時にはしゃいでいたり。電話だけで繋がっているのに、でも電話だけで隣にいるみたいで、とにかくあと必要なのは、あなたの体温だけだった。

いまこうして車を走らせている隣で、あなたはすやすやと眠っている。とても可愛い寝顔。ずっと憧れた光景だった。私が夜中に出掛けることが好きだから、夏休みが好きだから、新しく買ったキーボードで文章を書くことが好きだから、そういうことを一つひとつちゃんと知っているから、仕事で疲れていて眠たいはずなのに、私の誘いを決して断らない。「いいよ、どこに行く?」と聞いてくれる優しい人。

真夜中のドライブにぴったりの静かなBGMを流している車の中で、反対車線の車がすれ違うライトに、あなたの寝顔が明るく照らされる。その度に噛み締めた。私の隣に、あなたがいることの奇跡。同じ家に帰りたいと何度も何度も願った現実の方へ、いつの間にか来てしまっていた。

時折、こんな風に確認作業をする。愛しい人との現実を証明するものが、私たちには何もないから。プロポーズも、婚約指輪も、結婚指輪も、婚姻届も、結婚式も、同じ名字も、子どもも、何もないから。堕胎も、離婚も、私たちにはないから。

ただここにあるのは、生きているあなたと、私。

もっと若かった頃は、「愛だけを頼りに生きていく」なんてそんな、ドラマの中で聞くようなロマンチックな台詞は、自分には関係のないものだと思っていた。これが社会に存在をNOと言われているからこそ出る、唾と一緒に吐き出したいぐらいに最悪な、クソみたいな捨て台詞だということも知らなかった。

私の運転で眠るパートナーの顔を見ながら、なんだか急に泣きたくなった。今日は、どこにも行かずに今すぐに引き返そう。おうちに帰って、この子が大好きなベッドで寝かせてあげたい。なんで連れてきちゃったんだろう。なんでこの人の優しさにいつも甘えてしまうんだろう。とにかく今日は帰って、三人で眠ろう。

私には女性のパートナーがいて、その人のことを愛している。大切な家族だ。娘のように可愛がっている、二人の宝物も存在する。飼ってる犬、じゃなくて、二人で育てている、いのち。

私の現実を誰も知らない世界に、また明日も元気な顔で「おはよう」と言わないといけないと思うと、なんだかもう眠るのも億劫だ。でもまた明日もきっとあなたに会えるから、眠る。