熱帯夜

女として女に愛され愛したい

そっとしておいてください

なんか突然。なんか突然、久しぶりに、インターネットに文章を置いておきたくなった。別に書くこともないんだけれど。

夏がきていますね。この土地に彼女と住み始めてから8回目の夏。まだ結婚できていません。

最初にここに越してきたとき。仲介業者には恋人関係であることをあらかじめ伝えたのに、書類を書く段階になったら関係欄を指差して「じゃあ、友人としておきましょうか」と言われた、あの夏。隣人には最初から興味深そうに「きょうだい?」と聞かれ、曖昧にはぐらかした、あの夏。

ハグをしていても、甘えていても、喧嘩していても、一緒のベッドで眠ってときに性的な関わりがあっても、一歩外に出たら私たちは勝手に友人にされ、勝手にきょうだいにされ、ひどいときは親子にされる。その度に何事もないように流している。いや、流せない。流せてなんかいない。

ヘドロみたいに生ぬるくて臭い感情は、胸の奥にごっぷりと積み重なってしまって、もう自分一人では取り除けないでいる。気づいていてもどうしようもない。世間が信じられないぐらいに人権を大切にしていない。その事実に頭がくらくらして、なんとか生きやすい世界になるようにと一票を入れてきても「外国人」と「日本人」が共存することをノーという政党が笑ってる。

こわい。この世界で生きていくのが。こうやって文章に出したら、自分がこんなにもこわがっていることに気がついた。いつもがんばっていてえらいね。ちゃんとご飯をたべて、誰かを大事にして、自分以外の人も幸せであるように願って、自分にできることをしていてえらいね。傷ついているのにちゃんと自分で止血して、涙を流さずに社会で生きていて、えらいね。

もうママは守ってくれないし、私はママにはなれなかったし、レズビアンとして婦人科に行くことを躊躇わないといけない世界なのに、生きて納税していてえらいね。みんながみんなにえらいねって言える世界にいきたいね。家族として差別されない世界にいきたい。一人でいても、二人でいても、三人でも四人でも、どれがいいとか、どれがダメとか言われない世界にいきたい。

死にたいと思わない世界にいきたい。生きててえらい。でも生きなかった人たちを私は責めることはできない。私もあなたも、紙一重のところだったと思うから。りゅうちぇる、私たまに死にたくなっちゃうときがあるよ。でも、自分の死にたくなっちゃう気持ちよりも強い波動で「生きよう」っていう声がタイミングよく届いたり、逆に自分が「生きよう」を誰かに届けたいって思うときもあったりして、正直いつもぐちゃぐちゃのゆらゆら。どっちが正解とかないんかね。りゅうちぇるもそうだった? 生きるとか死ぬとか、むずいね。

LGBTQ+って、いらん存在なんかな。国勢調査にもまた入れてもらえないんだって。愛ってなんなんやろうね。私が毎日子どもたちを必死で守ろうと、育てようとしていても、同性愛者にそんなことしてもらわんでいいって言われてるようで、仕事も辞めたくなってる。自殺は国の他殺だろうが。いじめっ子がゲートキーパーを育てようとしてんなよ。私は「SOSを出したって助けてくれるところはない」という真実を知る同性愛者として、例えば目の前で死にたいという子どもたちに、一体何を伝えるべきなんだろう。本気で分からん。

映画『怪物』を観て

映画『怪物』 公式サイト

避けてきた作品を観ることになった

単純に怖いから、観るのをずっと避けていた。物事のすべてにおいて賛否両論があるのは知っている。よくネットで見かける(私自身の身近なので、いわゆるLGBTQ界隈というかそもそもクィアな)人々が、この作品には何らかの「問題がある」と指摘しているのを横目で見ていて、なんとなく公開当初からずっと観ることができなかった。性的マイノリティとして、様々なマイクロアグレッションを目撃してきたし、されてきた。だから、観るのが怖かった。

休日に映画を観るのが趣味であるパートナーが「miraに観てほしい」と言ってきたのがきっかけで、一度観てみることにした。「この映画を観て、miraがどういう感想をもつのか知りたい」と言ったパートナーの期待に何となく、今だからこそ応えてみることにした。前情報としてはマイノリティに関する話、そして子どもたちの話、ということぐらい。レズビアンである私はいま、この映画の中心にいる2人ぐらいの年齢の子を相手にする仕事をしている。

 

2つの立場から見えたこと

お母さんの言う「普通」がこんなにも際立って聞こえること、視点が変わって一見いい先生に見える保利先生は、マイノリティにとってあまりにも脅威であること、だから湊が嘘をついて保利先生を犠牲にした気持ちが分からなくないこと、親や先生に対して不誠実に見えた校長先生は、母が思いをぶつけて訴えていた最初から望んでいたように、実は湊の心に響くような道をちゃんと示していたこと。

自分が性的マイノリティだからこその視点と、仕事の立場からの視点がごちゃごちゃになって、なんだか感情の動きが忙しなかった。現実、子どもたちは未だにこういう風に咄嗟に自分を守り、戦いながら周りのいろんな怪物と接しているのだと思う。怪物を産むのは紛れもなく人間であるにも関わらず(この映画の中での「怪物」が何かというのは、観た人の考察によるのかな、きっと)。

だから大人は、とりわけ教師は、自分が子どもに嘘をつかれる存在であることを、常に忘れてはいけないと思う。そしてそれを嘘かもしれないと思いながらも信じてあげることも。この物語のなかの大人たちは、子どもたちがついた嘘に翻弄されて大変だったかもしれない。でも子どもたちは、大人たちが変えられなかった未熟な社会で自分たちなりに生きようと必死なんだよね。えらいね。いのちがけだよ。

 

親をするって、並大抵のことじゃない

一方、親が子どもの言うことを信じ抜くことは親としての立場から言ったら愛情なのかもしれないけど、一方通行の愛情をシャワーみたいに浴び続けた結果、親の期待に添わないことを言って傷つけるわけないはいかないと、子どもがとても慎重になって自分を押し殺してしまう結果にもつながる。でもさ、子どもが親である自分に嘘をつくだなんて、まさか自分たちとは違う幸せを探しにいこうとしているだなんて、多くの親はきっと信じたくないよね。まるで自分の子ども時代を見ているようだった。個人的には親になる選択肢の方を選べなくてよかったと感じた。嘘をつくことを受け入れられる立場だけ選んでよかった、と。

 

『怪物』とは

映画の公開当初、こういう(同性愛的な描かれ方の部分)ロジックを公開しないようにと、メディアに対して御触れがあったそう。生み出される物語の重要な組み立ての部分にマイノリティ性が使われてしまうことや、クィアと死が結びつけられやすい背景を考慮しなければならないのでは? と発信する方がいたり、その声に対応し、その場を感謝する監督がいた。

私は誰かが作品をつくるときの、そういう社会的な部分ついて考えていかなければならないことを知っている大人でもあるし、半径数メートルの中でやりとりされる子どもたち同士の会話や、教師が子どもたちに日々投げかけている「世間」「一般」「普通」「男らしさ」「女らしさ」という偏見と差別が溢れる、グロい世界で生きている子どもを守らなければならない立場でもある。

彼女が私にこの作品を見せたかった意味が、少しだけ分かった。仕事から帰ってきたら、また一緒に考察に励もうと思う。

とあるシーンで自分で髪を切ってしまった湊の気持ちを予想したときに、私は「好きになりかけている人に頭を触られてドキドキしてしまった自分が、先生が言う(異性愛を前提とする性差別的な)男らしさからかけ離れている長い髪をしているせいかも、と思い込んでしまって、自分を殺すつもりで切ったのでは?」と思ったんだけど、パートナーは「みんなが依里のことを菌扱いをしていて、(本当はそう思いたくないのに社会的に溶け込むために)汚いと思ったから咄嗟に触られた髪を切ったのでは?」と考察していた。視点の切り替わりで見える景色が変わるだけでなく、誰かと考察をし合うのも、とても興味深い作品でした。

女二人で男性優位な社会を生きていくということ

最近のこと

先日、パートナーと一緒にスーパー銭湯に行ってきた。

珍しくパートナーの方から提案してくれて深夜まで遊びたおした。大体が私から〇〇したい、〇〇食べにいこ、飲み行こ、と誘ってしまうので、彼女からの「今日さ、〇〇しちゃわない?」という提案が大好き。よっぽどのことがなければ、かなりの確率で首を縦に振ってしまう。

次の日の朝、ベッドに入ってものの数秒で寝てしまったんだなという形跡があっておもしろかった。女同士カップルは、本当に楽しい。生まれたときに一緒にいた家族といるときよりも、素でいられる。不思議だね。恋人。

sultrynight.hatenablog.com

女二人で男性優位な社会を生きていくということ

たまにこうして私は同性愛者なんだなぁ、と改めて振り返る瞬間がある。もう今となっては自分の性的指向については何とも思わない。生まれ持ったものであって自分には変えることができない私の中の一部と認識している。

ただどうしようもなく心細くなる瞬間は、ある。それは性愛的な意味で男性性を欲しているのではなくて、この男性優位な社会で、女二人で暮らしていくことのハードモードさからくるもの。もしも男性がこの家にいたら、きっと違ったんだろうな……と、ふと感じるような瞬間。

私たちはお互いにお互いを常に大切に思って、守り合っている。私もそれを感じるし、きっと彼女も感じてくれていると思う。ただ、男があっての女、みたいな認識がまだ根深く残る社会で、男だったらクリアできていたのであろうことが目の前に立ちはだかると一気に絶望してしまう。

こういうことが毎日起こる

例えば、比較的いつもよりも高い買い物をするとき。交渉が必要な場面。隣でスタッフから恭しく対応されている男性客の隣で、私は別のスタッフにタメ口をきかれている。このときは隣のスタッフは女性で、私の対応をしたスタッフは男性だった。

フランクにコミュニケーションをとっていただけでは? と思われるかもしれないが、多分これはタクシーの運転手にタメ口で行き先を聞かれたり、職場の男性に女性として生きていることを羨ましがられたりしたときに感じる ”アレ” なので、多分そういう経験をしている女性には分かっていただけるかと。

多くの男性にも分かるように説明する技量を持ち合わせておらず、申し訳ない(なんか、もうそういうことを ”男性にも分かるように説明しなくてはいけないような社会の雰囲気” が嫌すぎる)。

もちろん、こちらから横柄な態度をとっているわけじゃないし、どちらかというと柔らかで穏やかに、人と人の会話を試みようとしている。でも相手を尊重する雰囲気であればあるほど、「カジュアルに接して安心させてあげようね」「目線を合わせて会話してあげてる俺、やっさしー! かっけえかも」みたいなヤバ男性スタッフにあたりがちで詰む。

そういうときは決まって隣で話を聞いているパートナーとの間に、話さなくとも、目を合わせなくとも、『はぁ……当たっちまった。今すぐこの買い物無かったことにして帰りてぇ……』という、空気レベルでのテレパシーが行われる。

帰りは悪口と暴言を言い合うのが、お決まりのルーティーン。やだね、このルーティーン。なくなってほしいね。でも同じ想いでいてくれる女性がそばにいるという安心感や心強さは、すごいもの。ありがたい。

絶望を繰り返したくない

これは仕事場でよくあることなのだけれど、男性の機嫌を受け止めるのは女性の役目だと無意識に刷り込まれている人たちの相手をしなくてはならないとき。あえて ”人たち” と書いたのには理由がある。

イラつきをぶつけても良さそうな人・言いやすい人・怒らなそうな人(多くはそう見られがちな20〜30代の女性)に対する、いびりやクレームをした人(男性優位な社会に住んでいて気持ち良さそうな30〜60代の男性に多い気がする)の言動を、「よくあることだから」とか「この先もあるかもしれないから」とかいう冗談じゃないクソ理論で我慢させようとする人(多くは今まで冗談じゃなくそういうことを我慢させられてきた、自分たちの気持ちを守りたい40〜60代の女性)の対応も、とても厄介で疲れるし、面倒だ。

おじさんやおばさんの言う「私たちの時代はもっと酷かった」というセリフほどダサい逃げはないと思うので、全力で声を上げていきたい。のに、この男性優位な社会は政党が変わらない限り続いていきそうなので、これまた絶望している。女性軽視すぎる社会に住んでいないと自分のことを守れない人が多過ぎて……。

早くいなくなってね

同性婚も選択的夫婦別姓も、自分ごととして心から望んでいる人の声がちっとも届かなくて、おじさんおばさんのことが嫌いになっちゃうよ。みんないなくなることを祈ることしかできなくなっちゃうよ。でも一人ひとりが大切な人間だから絶対に死んでほしくはないし、だから私は選挙にいくよ。

だれかのせい、なにかのせいにしたっていいでしょうが

働き始めてから数十年、ずっと思い込んでいたことがある。

 

  • 組織で働くことに向いていない
  • 人と会うことが苦手

 

この2つのことは全て自分の性格によるものだと、そう思ってきたのに、この間モーニングページを読み返していたときに、自分が書いたとある文章が目に飛び込んできた。

“働くことが辛いのも、人とできるだけ会いたくないのも、私自身の問題なのではない。自分のセクシャリティを隠していなければ傷つきが深くなる社会のせいだ”

ほんとね。って思った。ほんとね。

この社会では「何事も人のせい、何かのせいにしてはいけない」と教育される。それがデフォルト。痛いことをされたから「とにかく痛いんだ! やめてくれ!」と声をあげようとしても、周りの痛くない人から「考え方次第だ」「受け止め方に問題がある」とか言われる。

「他人は変えられないけれど、自分は変えられる」とか「置かれた場所で咲きなさい」という言葉。意味は分かるけれど、それらを聞くといつもモヤモヤした。こういう日本的な美学が良しとされる社会で生きているのがつらい。だってこれを性的マイノリティに対して投げられる言葉に変えると、こうじゃない?

 

「こんな世の中なんだから仕方がないじゃん」

「結婚できないのが嫌なら外国に行けば?」

「自分中心に考えるな」

「権利ばっかり叫ぶな」

 

これ本当に、私たちの気持ちや捉え方で何とかできるものなの? 黙っていたら、排除の声に加担してしまうことになるんだよ。

私が組織で働きたくないのも、人と会いたくないのも、パートナーと子育てができないことも、私の問題ではなく、社会からの支えがないからでしょ。それでも何とか生きるために、適応するために、自分を変えることも置かれた場所でがんばることも、もうすでにやってきた。これ以上、自分のせいにはできないよ。適応できないのは私のせいじゃない。だって平等に扱われていない。

新しい環境にいくことが、とてもこわい。飛び込む勇気がない。それでも誰かに異性愛者の仮面をかぶらされて勝手に後ろから押される。

その仮面はつけているととても重くて、息苦しくて、動くだけでもめちゃくちゃしんどい。でもそれがあることで、この社会でなんとか生きていくことができるお守りみたいな存在(逆を言ったら、この仮面がないとこの社会で無事ではいられない、と思うほど強い仮面)。

お守りなんてなくても、私は私なのに。これは誰にかぶらされた仮面なの? ていうかそもそもお守りだなんて嘘に決まっているのに、誰にかぶることを強制されているの?

その人自身の希望でかぶってんだろ、と思いたい? 社会がそれを勝手にかぶらせてるんじゃないの? ってところから考えましょうよ。性的マイノリティの権利や安全を軽視する、一部の政治家の皆さん。ね?

お世話になった皆様へ

喪中につき新年のご挨拶が出来ませんので、先にお礼をお伝えしたくてやってきました。こうして繋がっていてくださる大切なお友達、フォロワー様、本当に今年1年、お世話になりました。

青色から黒色に姿を変えてしまった場所から移動したことが、1番の変化でしょうか。ヘイトスピーチで溢れ、イーロン・マスク氏の考える運営方針についていけず、居場所だったはずの大切なあの場所から離れなければならなくなったことが悔しくて、しばらく引きずりました。

生きづらくて苦しんでいるはずの私たち側が、いつだって暮らす場所や方法を選ばなければならないことが理解できない。例えばパートナーシップ制度がある自治体へ引っ越したり、同性で結婚できる国への移住を決めたり。高いお金と時間をかけて公正証書を作成したり、親子になりたいわけがないのに現時点ではその選択しかないから養子縁組をしたり。

結婚が出来ればそんなこと何も、本当に何も考えなくてもいいのに。パートナーと穏やかに安全に暮らしていきたいからその制度を使いたいだけなのに、なぜそれが許される人と許されない人がいるのか、なぜ人が人のもつ権利を許すなどという傲慢な態度になれるのか。一つひとつに「おかしい」と声を上げながらも、でも実際にはそうする(苦しいながらも何とか息ができる方を選択する)しかなくて、とても無力さを感じた1年でした。

ただ『結婚の自由をすべての人に訴訟』では5つの判決のうち4つの判決で、“法律上の性別が同じカップルが結婚できないことが違憲”との判断がなされました。原告さんたちのこと、公益社団法人Marriage for ALL Japanさんの活動、私が旧Twitterから姿を消しても本当にずっと、最後まで応援しています。生きる希望です。

あとはパートナーが事故に遭ったときに、保険会社の方に同性パートナーとして尊重してもらえました。生活を共にする家族として、パートナーの代わりに判断することや応答することができました。

でも街へ行って女二人が歩いていれば、どちらかを母親と、どちらかを娘と、もしくは友人だったり姉妹だったりと、そんなフィルターでしか人々を見られない人が無邪気に話しかけてきます。

仕事へは結婚指輪と同じ気持ちとお金で購入したお揃いの指輪をつけていきますが、年末調整の配偶者の欄には当たり前に「無」と書かされます。生命保険の受取人が同性パートナーで保険料控除の対象ではないから結婚の自由がある人たちよりも税金を多く払っているのに、申請しないとしないで事務さんに不思議そうな顔をされます。

「子作りはしないのか」(←えっ、普通に最低すぎる)「いい人はいないのか」こちらはそちらが『紙1枚でいつでもできる結婚』まで全然辿り着けないことで苦しんでいるのに、四方八方からヤバ質問ばかりが投げつけられます。別に他人のそんなこと、心底どうでも良くねぇか……。良くないの……? そう……。

一歩進んで二歩下がるような、そんな感覚の年でした。2023年。パートナーと知り合って16年。16年です。16年間、好きな人との結婚を求めているの。人が一人、高校生になっちゃった。

旧Twitterのアカウントは、2023年をもって削除します。本当にありがとうございました。

私は自分で選んだ少しでも安全と思う場所で、性的少数者の一人として、レズビアンとして、今後も声を上げ続けていきたいと思っています。これからもよろしくお願いします。

それでは皆様、よいお年をお過ごしください。
本当にありがとうございました。

2023.12.31 mira